オルガンとの出逢い – 夢と共に –

オルガンとの出逢い - 夢と共に -

オルガンとの出逢い – 夢と共に –

今思えば、なぜこれほどまでにオルガンの音色とその音楽が自分の心を捉えたかはいまだにわかません。

あれは小学校6年のときだったでしょうか。
ある日の音楽の時間に、バッハの小フーガト短調を聴いたのがオルガンとの初めての出逢いでした。
音楽の教科書のオルガンの写真を見ながら、レコードに聴き入り、もうそこは教室ではなく、ヨーロッパの教会のオルガンの前に自分が立っていました。

それから2年後、中学2年のとき再び音楽鑑賞にて同じ曲を耳にしました。
単純で美しいト短調のテーマは1声で始まり転調を重ねながら、2声3声4声へと発展していくのです。
高音から低音にいたるオルガンの音色の調和と、多声音楽の重厚さと神秘性はゆるぎもせずに、我々の魂をその世界へと引きずり込んでいくのです。

以来、衝撃的な感動は脳裏に焼きついて消えうせることがありませんでした。

当時、パイプオルガンなど鹿児島にはなく楽器の存在すら知る人はほとんどなかったのではと思います。
当然、楽譜などなく、レコードすら持っていません。

ある日友人の家に遊びに行ったときのこと、あのオルガンのレコードがあるではありませんか。
その友人は彼のお姉のもを快く貸してくれました。フランス人オルガニスト、マリー・クレール・アランの演奏でした。その中の1曲のフーガをカセットに録音し、毎日のように聴きながら、聴音を試みたのです。
4声のフーガをひくためには、家にあった電子オルガンではペダルの数が足らず、鍵盤の低音部より針金を吊るし、木の桟を切ったものにつなげてひきました。
今では考えられない低質の音をと、音楽に対する無知のため、どうしても音が完全に聴き取れず、何度も何度も繰り返し、いったい何ヶ月が過ぎたのでしょうか。
ある日ついに不完全ながらも全曲を完成することができたのです。
それを録音し、中学の音楽の教師に持っていったところ、みな同学年の皆に公開してくださいました。それに勇気付けられ、さらにオルガンへの思いは大きくなるのみでした。

オルガンのあのすさまじい低音は何の音だろうといつも疑問に思うことでした。
ある日の夢で、大オルガンの中を見学していました。
そこには、角錐状の大きな木管が立ち並んでいました。当然その様子は写真で見たことも、知識にすらもなかったのでまさかとは思っていたのですが、その後NHKホールで働く知人にオルガンを案内してもらったときのことです。
まさにあの夢で見た木管が立ち並んでいるではありませんか。
音は聴くことができなかったものの、これがあの低音を出す、ポザウネであるとはっきり認識しました。
また、高校2年のとき、部活の先輩に「オルガンのあのきらびやかな音はいったいどうして出るのだ」と問われ、数年たってようやく、それはいくつもの高い倍音管が混合されてなっているのだとわかり、次から次にオルガンの謎が解けていくことでした。

それでもオルガンに対する興味と脅威は増すばかりで、ついにオルガンを自分で作ろうと思い立ちました。
それは、加治屋町教会にまだオルガンがいる前のことです。
まずはパイプを紙で作ることからはじめました。
いろいろなオルガン建造に関する書籍を取り寄せ、設計図を書き、木材などの材料を購入し自分の部屋で木管を作り始めました。
中古の鍵盤やさまざまなパーツ類も入手することができました。

そのころ、バッハの生まれたドイツへの思いはあせず、谷山カトリック教会のドイツ人の修道士やシスターのところに会話のために通っていました。
そのコンラード修道士より鹿児島加治屋町教会にオルガンが入ったことを教わったのです。

夢見たオルガンが鹿児島のしかもすぐ家の近くにある。
希望に胸を膨らませ、電話をかけ教会へと足を運びました。牧師夫人に案内され、ついに並んだパイプを目の前にしたのです。加治屋町教会のオルガンに出会った最初の日です。

その日は、音を聴くことも触ることもできず、主日礼拝への案内をされました。
それから教会へオルガンが目的で通い始めたのです。
画、最初の礼拝の澤田牧師の心からの祝当該までも鮮明に心に浮かび上がってまいります。
数ヶ月たったころでしょうか、自分の心に変化が現れ始めたことに気づきました。
知らず知らずのうちに、説教のないように心を惹かれるようになり、オルガンのが目的で通っていたことを忘れていたのです。
そんな時、藤原牧師にオルガンに触ってもよいことを許されました。
二十歳の秋洗礼を受け、その後毎年キリスト教音楽講習会に参加させていただきました。

高校時代から、周りに音楽の道に進むことを反対され続け、それでも諦めきれず、2度目の大学にようやくオルガン専攻としてたどり着きました。
当時、大阪の南港に住み、学生生活の傍ら、週末には東梅田教会の早朝礼拝と夕拝の奏楽の奉仕、そしてその間には神戸のホテルのチャペルのオルガン奏楽の仕事を持っておりました。が、留学の夢はますます強くなるばかり。

卒業直後、あせるようにドイツへ語学研修に1月ほど渡ったのが運命の変化となったのです。
ケルンでの語学研修も終わりに近づいた週末、いやおうなしに行ったパーティー会場で話したスイス人が、研修の後、遊びに来るよう誘ってくれたのです。
半信半疑でしたが、ユーレールパスももっており、ヨーロッパを旅行する予定でしたので、誘いにのってたどり着いたのが、フランス語圏のレマン湖畔にあるロールという小さな町でした。
その週末に友人の母親に教会に連れて行ってもらい、そこのオルガニストに「すばらしい教会とオルガンですね、どこか留学できる可能性はありませんか。」とたずねたところ、即、「私は今月でここをやめます、あなたが次のオルガニストです。」と返事がかえってきたではありませんか。
翌日には、初見や即興などの審査があり、契約書をもらい帰国しました。

1週間のうちに、神戸の仕事をすべてやめ、大阪から鹿児島へ引越ししました。
すぐさま、スイスへ戻り新たな生活が始まったのです。
1990年10月1日のことでした。
幸運にも即日、ジュネーヴの音楽院にも入学できたのですが、何しろ、フランス語など1度も学んだことなく想像を超える苦労が待っていたことは否定できません。
しかしながら、いつも夢に見ていたヨーロッパの教会のオルガンの傍らにいる自分、そしてあのマリー・クレール・アランにも夏の講習会にて師事することができたのです。.....

それから、18年たった今、2つの学校と2つの教会での仕事が与えられ、ついにこれまでの感謝を形に表せるときがやってきたのです。

新しいオルガンの選考に関しては、どのメーカーにせよ、一番ふさわしいものが入ればよいと願っていました。
フューグリスター社が選ばれる前のことでした。
ある日の夢で、親子二人が礼拝堂の中ほどに据わっている情景をはっきりと見たのです。
今のオルガンが撤去され、礼拝をホールのようなところで電子オルガンを用いて行っている様子。
また教会で大きなバザーが開かれ、壁にはオルガンのパイプが一面に並べられ何十人もの人が行きかい、教会員の人たちが協力してそれらを渡している様子...など幾多の場面をそのたびに見せられ、まるで現実が夢を追っているかのようでした。

そして今、そのオルガンは工房にて完成を目の前にし、待ちに待った皆の夢がいよいよ現実になろうとしているのです。
世界で最も古い演奏可能なオルガンのあるスイスのシオン、そしてその修復を任されたフューグリスター社。

そこから、日本へは初めてのオルガンがこの鹿児島へやってくるのです。
中世に作られたシオンのヴァレールのオルガン。
当時多くの人の努力と理解があって現在の今、私たちの耳にすることができることをふと想像しました。

オルガンとの出逢い - 夢と共に -

オルガンとの出逢い – 夢と共に –

加治屋町教会の新しいオルガンも、世紀を超えて数百年の間響き続け、神を賛美し、人々に感動を与えてくれるものであってほしいと思うと、いてもたってもいられなくなり(いたたまらなくなり)、可能な限り最高のものが入って欲しいと願ったのです。

これまでを導いてくださった主へ、教会の皆様へ、多くの師や知人たち家族、そして加治屋町教会の今のオルガンへの感謝の証こそ、今回の新しいオルガンに全力を尽くすことであると確信しています。

オルガンとの出逢い - 夢と共に -

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